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2011年2月

2011年2月24日 (木)

仮放免者の会 2.25デモに賛同しました

日本に滞在許可のない外国人の中には、祖国に帰りたくても帰れない難民がいます。祖国の政府と異なる信条を主張したり、政府が第一とする宗教を信仰していないなどの理由で命を狙われる人が、生きるために日本に逃れてきています。

しかし日本では、滞在許可がない人は各人の事情に関わらず、全員を外国人収容所に収容します。祖国に帰れず、半年以上の長期収容に身を置く人々がいます。

日本政府が全員収容するのは、滞在許可のない外国人に対する締め付けを緩めると、難民ではないのに難民申請をする「偽装難民」が大量発生すると考えるからです。しかし2010年、茨城県牛久市の外国人収容所に収容されていた外国人2人が自殺しました。余分な物品が与えられず、常に職員から監視されている外国人収容所で、自殺した外国人の1人はビニール袋を使って首をくくりました。そこからオーバーステイでも収容されずに日本に滞在できる「仮放免」の早期認可など処遇改善を求めて、収容者の約70人がハンガーストライキを実施したのです。

なぜ収容者がハンストを実施するのか。繰り返しますが、彼らは祖国に帰りたくても帰れない境遇にいる割合が高いのです。帰国すれば即、祖国の政府などにより迫害、投獄の恐れが生じる可能性があります。自殺者が出た理由が、外国人収容所にないと言い切れるでしょうか。収容経験のあるミャンマー(ビルマ)人たちは、外国人収容所の実態をこのように言い表しています。「外国人収容所の職員は、私のあごひげを引っ張り、からかった。私たち外国人をブタのように扱った」「自殺者? ああ、いるよ。そういう人」「私が収容されていた時は、土日にシャワーが使えなかった。今はどうなっているか分からないけれど、それで夏場に、中国人の収容者が『シャワーを使わせろ!』と叫ぶんだ。すると職員がやってきて、収容者ともみ合いになる」「歯痛にイソジンを与えられて、ちっとも治らない」

彼らの証言から、外国人収容所の劣悪な環境が浮かび上がります。

確かに日本に滞在したいだけで、難民でないのに難民申請をする「偽装難民」は存在します。しかし正式に難民と認定されるべき人も確実にいるのです。日本人にとって、その判別は非常に難しい。だから基本的にオーバーステイの外国人全員を収容するのですが、行き過ぎた外国人管理が不幸を生んでいます。私は難民がいる限り、彼らが自殺しない処遇と環境改善を求めます。同時に日本の難民認定の在り方として、本来の難民と偽装難民を識別するよう、難民認定の精度を高めることも必要です。

また、収容者がいったん外に出る「仮放免」の措置にも課題が多くあります。そこで仮放免者の会の2月25日デモに賛同いたしました。仮放免とは何か?以下をぜひお読みください。(仮放免者の会ホームページより抜粋)

           

仮放免者の会 2.25デモのおしらせ/団体・個人賛同のおねがい(転載歓迎)

2月25日(金)に、東京の品川で、「仮放免者の会(PRAJ)」の企画するデモがあります(デモのご案内は、この記事の下のほうをごらんください)。
まず、「仮放免者とはなにか?」について説明させてください。
日本には、他の国と同様、難民や移民として生活している人がたくさんいます。しかし難民認定の申請はほとんどが却下されます。また、移住労働者としてやって来てすでに日本の地域や職場に根ざしていながら正規の滞在資格を得られない人がたくさんいます。
入国管理局(入管)は、正規の在留資格をもたない外国人をすべて収容所に収容することを「原則」としています(全件収容主義)。しかし、そうした外国人全員を収容することなど不可能なので、収容しきれない外国人を、入管側からすればいわば例外的な「お目こぼし」として「仮放免」しています。仮放免には、保証人と数十万から300万円の保証金が必要です。
仮放免者は、過酷な収容は解かれるものの、さまざまな不自由をしいられ、無権利状態におかれています。就労は禁止され、移動の自由は奪われています(住んでいる都道府県から出る場合、「一時旅行許可」を入管に申請し許可されなければならない)。また、在留資格がないため、健康保険に入れず、生活保護も受けられません。「(アジア系・アフリカ系の)外国人にみえる」というだけで、警察官の威圧的な職務質問を受けることもひんぱんにあります。
そして、仮放免者は、入管からすれば一時的に「仮」の「放免」の許可を与えているだけということなので、いつまた収容されるかとおびえながら暮らさざるをえません。1ヶ月あるいは3ヶ月ごとに入管まで出向いて、仮放免延長の手続きをしいられますが、このときに入管職員から「来月は収容するからな」とおどされることもあります。
こうした状況を改善し、仮放免者全体の、人としての権利の回復をめざして、わたしたちは 2010年10月31日に「仮放免者の会」を結成し、連帯して運動をすすめていくことを決意しました。
「仮放免者の会」は以下の5つの要求項目をかかげています。


  1. 入管は「仮放免者」として生活している外国人の繰り返しの収容をやめることを強く要求する
  2. 「仮放免者」が独立して生活するために仕事をすることを許すことを要求する。
  3. 「仮放免者」が、いかなる苦痛も困難もなく日本で生活するために、必要な規則を作ることを要求する。
  4. 「仮放免者」に、在留資格を与えることを要求する。
  5. 収容中・収容後の心身の被害への謝罪と賠償を要求する。

この5つの要求に賛同してくださる団体と個人をつのります。
また、この問題に関心をいだく、日本にくらす多くの外国人・日本人のみなさんに、2月25日のデモへの参加をよびかけます。
 

  • 賛同は、[junkie_slip999@yahoo.co.jp]で受け付けております。
  • 個人として賛同を寄せてくださるかたは、お名前(戸籍名でなくてもかまいません)と、公表をご希望の場合は所属・肩書き等をお書き下さい。
  • 個人として賛同を寄せてくださるかたは、「仮放免者の会」のウェブサイトでお名前を公表させていだたくことの可否をご明記ください。お名前を公表しないかたちでの個人賛同も受け付けております。
  • 団体としての賛同は、ウェブサイトで団体名を紹介させていただきます。


賛同人・賛同団体一覧



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Stop “Re-Detention”!
~再収容をやめろ~

Dear Friends 親愛なる友へ
We, the refugees and immigrants, have been finally granted a so-called "provisional release" after over a year of detainment in the immigration center which had a devastating effect on our body and soul. Since then, we turn ourselves over to the immigration officials on a stated day every month. However we are in fear of facing further hardships by re-detention, depending on the result of the refugee recognition procedure or administrative lawsuit. If that were the case what was the meaning of our first detainment? Even as we applied for the recognition of refugee status and the administrative lawsuit thereof, we are yet to be freed. We cannot accept such a violation of human rights. That is why we established “Provisional Release Association in Japan” (PRAJ) and encourage everyone to oppose the re-detention policy. We may be foreigners but we are just as human as the people of Japan. Japanese Government’s policy which hinders the basic human rights of foreigners must not be allowed. In order to abolish such a policy which is directly in violation of human rights, we foreigners need to unite and let our voices be heard.

私たち難民・移民は入管による長期収容によって心身共にボロボロになり、やっとの事で仮放免許可を受けました。その後、毎月指定された日に入管に出頭しています。しかし入管は、難民手続きや裁判の結果を受けて私たちを再収容します。ならば私たちに対する一回目の収容は何だったのでしょうか? 私たちが難民申請や裁判を始めても入管は私たちを解放してくれませんでした。それなのに「結果が出たから」とまたもや再収容されるのです。私たちはこのような人権侵害を許すことができません。私たちは昨年の10月31日に「仮放免者の会(PRAJ)」を結成しました。そして再収容に反対するデモを皆さんに呼びかけます。日本人も外国人も同じ人間です。日本政府による外国人への人権侵害は許されないことです。この人権侵害をなくすためには、まず私たち外国人が団結して声を挙げていくことが必要です。

Stop mental torture 精神的拷問をやめろ  Stop killing overstayers オーバーステイ外国人を殺すな  Release detainees from your torture 被収容者を拷問から解放しろ  Stop re-detention 再収容するな  Stop violations of human rights 人権侵害をやめろ

February.25. (Fri.) 12:30 gathering at Shinagawa Station Bus Stop for Nyukan / 13:00 Departure
2月25日(金) 12:30 品川駅入管行きバス停前集合 / 13:00出発




Organized by Provisional Release Association in Japan (PRAJ)
Contact: MASUDA 080-3421-4060 / MIYASAKO 090-6547-7628
主催 : 仮放免者の会  連絡先:増田080-3421-4060 宮廻090-6547-7628

【Photo】タイ メラキャンプ(2)

Photo_4 

「新潮45」誌面に掲載していただいた写真。暗いアーケードに数多くの商店が立ち並ぶ。

Photo_4 

スナック菓子やジュースを売る商店内でひとやすみ。この写真の後ろはサトウキビの家内工場になっていて、7人ぐらいでサトウキビの茎を割り、ジュースを作ってくれた。ちなみに、向かいの店は床屋。写真中央にケープを被って散髪してもらっている人がいる。見えますか?

Photo_5 

キャンプ内の丘の上に、寺と僧侶を育てる学校がある。寺の門から撮影。難民の家屋が山裾を覆っている。

Photo_2 

境内の一角。さぽーてぃど ばい じゃぱん。日本の団体が支援をしている仏教学校です。ここには僧見習いの小学生から高校生くらいの男子がうじゃうじゃいる。

Photo_3 

仏教学校の一角にある教室で、アーシンソパカ氏が英語の授業。難民の方々は非常に熱心に勉強する。「日本が戦後に経済大国になった理由は?」と尋ねられた。難民キャンプに暮らしながら、今後、自分たちが発展するにはどうしたらよいかを真剣に考えている様子に驚く。欧米をはじめ、各国からこうした学校の教員になりたいと希望するボランティアがやってくる。

2011年2月23日 (水)

【Photo】タイ メラキャンプ(1)

文章だけでは伝わらないメラキャンプの様子を写真でご紹介します。

2010年5月3日撮影、深山沙衣子。

Ashin 

メーソートから続く道路を歩く。左側はキャンプ家屋。

僧侶、アーシンソパカ氏がキャンプ内まで私を先導する。

Mera 

キャンプ外観。

Photo 

屋内のハンモックに寝そべる難民の足が見える。

Photo_2 

木と竹と葉でできた家が林立する。

Photo

道路沿いを歩く難民の人々。日傘をさしていたりして。

写真どおり、キャンプは緑の深い山奥にあります。

Photo_3 

キャンプ内に潜入。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が運営する学校。

この時、学生は集まっておらず、竹製の門は閉じていた。

【本文掲載】「第三国定住」って何? 難民流入にどうする日本(5)

成功は未知数、だが継続が必要

日本での第三国定住の成功は未知数だ。難民の定住が成功する例もあるだろう。しかしベトナム戦争後に日本が受け入れた1万人ほどのインドシナ難民は、仕事に就けるレベルの日本語教育を受けなかった。6カ月の日本語教育では、あいさつと自分の名前を書ける程度の日本語能力しか身に付かない人もいた。結果、10年経っても仕事に就けず、現在は生活保護受給者となっているケースが見られる。医療機関で日本語が通じず、取り返しのつかない手術を受けた例もある。第三国定住で日本語教育を担当する文化庁は「日本語教育のカリキュラムはインドシナ難民のケースを参考にする」というが、このカリキュラムでは不十分だ。

また日本の国籍法では、日本で生まれた難民の子どもは、定住5年以上の親と共に帰化申請しない限り、20歳まで日本国籍を取得できない。教育や医療アクセスは保証されているが、日本国籍が無いことにより、海外への出国先に制限が生じるなどの不利益がある。このように難民受け入れ環境が未整備のまま、同事業は実施されている。

だが、現在日本に住むミャンマー人やNGOなどの支援団体が彼らをサポートする予定だ。これに難民が定住する地域住民の協力があれば、日本社会に上手くなじむ可能性はある。

第三国定住の難民受け入れは、日本という土地で、日本に住む多くの人間が直接関わる人道支援である。日本政府は声を大にして同事業の実施を公表し、まずは国内の世論醸成に努め、国民への理解を深めるべきだ。

確かに、不況が続き国家財政が厳しい中で、日本国民への社会保障も不充分なまま、外国人のためにそこまでする余裕があるのか、という批判もあろう。第三国定住は、きれいごとを並べるだけで上手くいくものではない。

第三国定住により欧米諸国で生活するミャンマー人は、レストランの皿洗いや店頭での商品陳列など、技術力を要しない仕事に就くケースが多い。

「農業や服作りなど生産技術を習得する支援をしてくれれば、日本は受け入れ人数が少なくとも、第三国定住事業で世界の見本となれる」

とビルマ連邦国民連合政府の民族問題担当大臣のコーンマーコバン氏は述べる。

「カレン人難民が技術力を身につければ、日本の労働力にも寄与する。いずれミャンマーが平和になり、彼らが帰国することになった場合に、日本で習得した技術がミャンマーに貢献する」

という。

難民の定住とは、多文化理解を進める受け入れ側と、直面する困難を克服し続ける難民自身とが協力して難民の人生の道筋を作り出すことである。彼らが自立して生活できるようになるまで、定住支援が必要だ。途中で戸惑うことは多くとも、継続することで拓ける道もあるだろう。

最後に、カレン族とミャンマー軍事政権が武装闘争を続ける限り、タイとミャンマー国境付近の難民は増え続ける。難民の第三国定住は避けて通れない対応策だが、対症療法でしかない。日本政府は第三国定住に継続的な協力をしつつ、難民キャンプの根本解決への提言として、ミャンマー軍事政権に対してミャンマー国内の少数民族への善処を促すことが求められる。(みやま さえこ)

【本文掲載】「第三国定住」って何? 難民流入にどうする日本(4)

民主主義の国だから日本に行く

「結婚しているよね?」

 エッラーが童顔で年も若いので、日本定住の条件である結婚の有無を確認する。彼は当然だという風にうなずいた。エッラーは現在23歳の妻と06年に結婚した。彼らが19歳の時だ。

「カレン族は一生に一度しか結婚しない」

自分たちはカレン族の伝統どおり、一生に一人の相手として貞操を誓いあったと誇らしげに語る。彼には2歳と3歳の娘が2人いる。

「日本人の男性が妻を娶るのは一人? 一生に何回も結婚できるんですか?」

逆にエッラーが、日本の結婚について尋ねてきた。日本は一夫一妻制で、離婚と再婚ができる結婚制度だと彼は知らなかったが、日本人の男女関係に野次馬的な興味を示し、既婚男性が配偶者の女性を大事にしない場合はどうなるかと聞いてくる。

「それ相応の報いを受けるでしょう」

未婚の私は、それだけ答えた。

メラキャンプの難民は、漢字という文字が言語で使われていること、24時間電気が使えることなど、日本の基本情報を何も知らないでいた。

しかし19歳は早婚だと私がひとりごちていると、ソーバージが説明を加える。

「キャンプでは教育もあまり行われないし、小さい頃からみんな知り合いで、10代の結婚は当たり前なんだ」

 難民キャンプの結婚では、証明書類や書類を提出する役所のような場所はない。ただ、言葉だけで誓い合う。結婚式も挙げなかった。

「そんな金はない」

というのがエッラーの言い分だ。

「仕事とは別にクオーターのリーダーをやっていた。リーダーは仕事がたくさんあるんだ」

 クオーターとはメラキャンプ内を分ける最小単位の地域区分だ。キャンプはA、B、Cといったゾーンで大まかに区切られ、各ゾーンでA1、B2などのクオーター区分がある。キャンプ、ゾーン、クオーターにはそれぞれリーダーがいて、各地区を統治している。

クオーターのリーダーはNGOや国連と話し合い、どの組織から、どの程度の食料配給を受けるか決める。キャンプに新しく入植する人や、第三国定住などで出て行く人をチェックする。犯罪行為者を見つけ、取り締まる。リーダーは3年に一度、キャンプ難民による選挙で選出される。エッラーは08年からクオーターリーダーを勤めたが、今年辞めた。日本に定住することが決まったからだ。

「なんで第三国定住先に日本を選んだの?」

 難民が第三国定住先を決める要因の第一は、自分の民族が先行して定住しているかどうかだ。日本にいるカレン人は100人ほどしかいない。

「兄がオーストラリアにいるから、初めはオーストラリアの第三国定住を申し込んだ。でもダメだった。その後アメリカに申し込んだが、それも外れた」

 アメリカ、オーストラリア、ヨーロッパはカレン人が多く定住しており、彼らにとって人気の第三国定住先だ。イギリスの植民地だったミャンマー人にとって、英語圏は生活になじみやすい利便性がある。

「でも日本に決めた。あるカレン人は『日本は生活が合わないよ。アメリカやヨーロッパにしたら』と言う。日本は第三国定住が始めてだし、不安を持つ人もいた。だけど日本は民主主義の国だから、行くのは怖くない」

 日本が合わないというのは、固定的なイメージに過ぎないとエッラーは主張する。

「ミャンマーは危険で、僕が祖国に帰る予定はない。ただ日本に行っても祖国は忘れない」

 彼らはミャンマーで生きられず、難民キャンプで生命の危機を感じており、別の生活場所を探して切羽つまっている。日本の魅力うんぬんではなく、他の選択肢がないため日本への定住を決めたのだ。そして日本でもカレン族の誇りを忘れずに生きていく、と強く誓う。

 日本政府は第三国定住で難民を受け入れた後、6カ月間の「定住支援プログラム」を実施する。来日後の衣食住の支給や子どもの就学支援、社会生活適応指導、職業紹介などの定住支援事業を行い、日本国内における彼らの自立を促す。6カ月間は東京で日本語教育も行われる。

 日本政府から、どんな仕事を紹介されるのかと尋ねると、聞いていないとの返答だ。

「できるなら機械に関する仕事がしたいんだ。最初は日本政府が紹介する仕事をするけど、後で仕事を変えられたらいいな」

 エッラーの妻も日本で学び働く意欲がある。

「奥さんは何を学びたいの?」

「料理」

日本で労働をする見通しが甘いのではない。この環境では、そのくらいの知識と希望しか手にできないのだ。自分の身の丈に合った、やりがいのある仕事を探すというのは、生命が保証される者しか希求することができない。

「日本にはミャンマーの軍事政権に対して民主化を求めるミャンマー人がいるけど、彼らと一緒に民主化活動をする気持ちはある?」

「ない。僕が願っているのは、民主化ではなく、カレン族の独立だ」

ミャンマー軍事政権に叛旗を翻し、日本に逃れて民主化活動を続けるミャンマー人難民たちは、民族を超えて協力しあっている。なぜなら就業やビザ更新など、生活保障において助け合う必要があるからだ。彼らは日本に来る前から、ある程度の学歴と財力を持ち、ブローカーに高額な金額を支払って入国の手配を整え、来日する。彼らとメラキャンプのカレン人は、育ってきた環境があまりにも違っていた。

【本文掲載】「第三国定住」って何? 難民流入にどうする日本(3)

カレン族は日本軍に弾圧された

ソーバージの寝泊りする小屋にいると、20歳位の男性が私の元にやってきた。彼はソーバージの知り合いで、第三国定住で来日するという。アーシンソパカがソーバージに相談して、私の取材対象者を探してくれたのだ。

色白に細長い手足、身長は168センチほどで、幼い顔立ちだ。名前はエッラー、23歳だという。葉巻の端をちぎり、ライターで火を点けてゆっくりと吸う。高床式住居の前にある土間兼台所のスペースで、ソーバージの通訳によるインタビューを開始しようとした。

ところがエッラーは、第二次世界大戦で日本軍がビルマに侵攻し、カレン族をいかに弾圧したかという歴史を語りだした。イギリスの植民地運営に重用されていたカレン族を、ビルマ独立を掲げた日本軍がスパイとみなし、強制労働を強いて、逮捕、処刑したという。

続いて彼は、ビルマ軍とカレン族の闘争を語る。49年から独立闘争を続けるカレン族の組織、カレン民族同盟(KNU)の攻撃は、ビルマ軍にかなりのダメージを与えた。カレン族は強い。武装したらビルマ人にとって大変な脅威となる。しかしカレン族には仏教徒とキリスト教徒がいて、キリスト教徒が上層部を占めるKNUから離反した、仏教徒中心の民主カレン仏教徒機構(DKBO)とKNUは対立している。ミャンマー軍事政権がDKBOに資金援助を繰り返し、カレン族同士の対立をあおり、カレン族の反政府闘争の気運を弱めようとしているからだ。ちなみにミャンマー人とは、他民族を含めたミャンマー出身の人を総称して言い、カレン人が「ビルマ人」と呼ぶのはビルマ族のことで、国全体の人民を指すわけではない。エッラーにとって、ミャンマー軍事政権の軍隊は「ビルマ軍」だ。

「なぜ難民キャンプへ?」

「20年前、父はビルマ軍のポーター(運び人夫)をさせられていた。戦闘の前線に行かされるポーターがイヤで、逃げたのさ。母はその時ビルマ軍に捕まり、半年間投獄された」

 その後、エッラーの家族はタイとミャンマー国境付近の難民キャンプへ助けを求めた。だがビルマ軍がキャンプの居住地を燃やし、他のキャンプや近くの村落へ転居を繰り返しながら、99年にメラキャンプに辿り着いた。彼は3歳から現在まで20年間、ほとんどを難民キャンプで生活している。

「メラはタイの軍隊が守っているけど、ミャンマー側の山からビルマ軍の人間がやってきて、人殺しをすることもある。難民キャンプは安心できる場所ではないよ」

「え、タイ国内のここにビルマ軍が来るの?」

「そこまで。やつらは夜に来る」

 エッラーが家の向こうを指差した。キャンプ裏の山の向こうは国境の川が流れている。タイ政府は夜になると警備を行わず、キャンプ近くで殺人が起きても、事件の真相を追究できない。

「ところで、教育は何年間受けたの?」

「通算して8年間教育を受けたけど、何せ、いくつものキャンプを転々とした生活をしてきたから、正規に教育を受けたのは3年間だけ。静かに勉強ができる環境ではなかった」

「学んだ教科は?」

「ビルマ語、英語、カレン語」

 難民キャンプでは幼稚園、小学校、中学校、高等学校、大学などが各NGOなどにより運営されているが、彼が受けたのは体系的に理系と文系の科目が網羅されていない、途切れとぎれの教育だ。

「難民キャンプでも日銭を稼がなくてはならない。だから勉強はそんなにしていないよ」

 エッラーは日雇いでとうもろこし畑の収穫を行い、1日15バーツ(約40円)を稼いでいる。タイでも最低賃金だと彼は訴える。ちなみに世界銀行が定めた最貧困レベルの基準は1日1.25ドル(約91円)の生活だ。畑仕事は季節労働で、仕事がない日もある。

「だけど食料は手に入るんだ。国連やアメリカ、ヨーロッパの団体からサポートがあるから」

 1人あたりの1ヵ月の食料配給例は、米15キロ、大豆1キロ、フィッシュペースト750グラムなどだ。

【本文掲載】「第三国定住」って何? 難民流入にどうする日本(2)

マーケットに着いた。光の入らない暗い建物の中に、小さな店が並ぶ商店街だ。活気はない。洋服店ではミシン台を囲んでインド系の顔立ちの女性が寝転ぶ。工具店、台所用品店がある。店頭の品揃えは非常に豊富だ。皿、サンダル、じょうろ、菓子。どの店にも店番が1人はいて、ある店番の女性はタイバーツの札束を数えている。貨幣による市場経済が成立しているようだ。

「どこから、この商品を仕入れてくるの?」

「メーソートで買ってくるんですよ」

ソーバージは淡々と言う。キャンプには何か物資を生産する組織がない。だが生活用品のニーズはいくらでもある。外国にいる家族からの仕送りによって現金を得る難民がいる。つまりメーソートで物資を仕入れ、商売を始める人がいても不思議はない。ソーバージは渋い顔でつぶやいた。

「商店を営む多くのイスラム教徒は、特に金儲けがうまいんです」

メラキャンプの住民はカレン族がほとんどを占める。ほかシャン族、アラカン族など少数民族もいるが、イスラム教徒は、特に自分たちだけでまとまる傾向があるという。

ミャンマーは7割を占めるビルマ族のほか、主要8部族と135民族を抱える多民族国家といわれる(ミャンマー政府発表)。ほぼビルマ族で構成され、少数民族を不平等に扱うミャンマー政府とカレン族との対立が、タイとミャンマーの国境における大量のカレン人難民を生み出した。1948、ビルマがイギリスから独立する際、カレン族はビルマからの独立を求めた。平和的手段の抵抗運動は武装闘争に発展し、多くのカレン人が虐殺されている。

さらにミャンマー軍事政権は、カレン州にあるカレン人の軍事基地攻撃に化学兵器を使用した。赤いドクロのマークが表面に描かれた化学兵器は、ガスを発して花火のように発火し、火の粉が付着すると全身が燃え上がって皮膚と骨を溶かす。鼻、耳、口など体中の穴から血が吹き出る。生存した被爆者は3年ほど身体の震えが止まらない。ミャンマー民主化活動家による亡命臨時政府ビルマ連邦国民連合政府(NCGUB、本拠地はアメリカ。首相は民主化活動家のリーダー、アウンサンスーチー氏の従兄弟であるセインウィン氏)の民族問題の担当大臣でカレン人のコーンマーコバン氏によると、「軍事政権がカレン人に使った化学兵器は、北朝鮮かイスラエル製ではないか」という。軍事政権の軍人にレイプされるカレン人の少女、ビルマ軍の最前線に徴用される若い男性など、カレン族の闘争の歴史は非常に過酷だ。

84年、ミャンマー軍事政権はカレン族の拠点であるカレン州に軍事侵攻し、1万人以上のミャンマー人がタイに逃げ込む。タイ国境付近で正式に難民キャンプが設立した。その後もキャンプに来る難民は増え続けている。加えてミャンマーには国内避難民が約50万人もいるとされている。

私はアーシンソパカに、第三国定住で来日する人を取材したいと伝えた。

「探せるかな。何せメラには5万人も難民がいるから」

彼は笑いながら言った。

【本文掲載】「第三国定住」って何? 難民流入にどうする日本(1)

2010年5月3日、タイのバンコクからバスで8時間ほどかけて、タイ・ミャンマー(ビルマ)国境付近のメーソートという町に着いた。メーソートは、ミャンマー軍事政権の圧政から逃れたミャンマー人民主化活動家や少数民族の抵抗活動拠点で、ミャンマー人の難民キャンプ「メラ」に最も近い町だ。ここまで来る途中、ミャンマー人の不法入国を取り締まるタイ政府の国境警備隊や地方警察官にバスの運行を止められ、身分証確認を3回も受けた。彼らの中には、1メートルもの猟銃を肩にぶら下げている者もいた。

メーソートに来たのは、日本に住むミャンマー人難民の友人、アウンサンの一言がきっかけだ。「ミャンマー人難民を調べるなら、今年秋に第三国難民定住で来日する難民が住むメラキャンプに行ってみたら?」。しかし難民キャンプはタイ内務省が管轄し、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)やNGOがインフラ整備・生活支援を行う。外国人でジャーナリストの私が軽々しく入れる場所ではない。現にタイに入国後、「オーストラリア人ジャーナリストが難民キャンプを取材しようとして追い出された」との情報が入り、キャンプへ行く際はミャンマー人の服装であるルンジーという腰巻をまとって変装するよう、バンコク在住のミャンマー人から言われていた。

アウンサンは取材時の困難を見越して、東京で開催されたミャンマー民主化活動の集いで知り合ったメーソート在住のミャンマー人僧侶に、私の取材同行を依頼した。タイやミャンマー社会で高い身分の僧侶と共に動けば、見た目が東洋人の私は目立たないはず。僧侶との待ち合わせ場所はメーソートで外国人が多く使用するゲストハウス。そのゲストハウス従業員と僧侶が、私の取材行程が安全かどうか下調べをしてくれていた。

第三国定住

タイ・ミャンマー国境付近には9つの難民キャンプがあり、範囲は2000キロ、総面積は53767.6キロ平方メートルに及ぶ。26年以上前から軍事政権の人権侵害を逃れたミャンマー人が定住を始め、現在の難民数は14万人以上。メラはその中でも最大規模のキャンプで、5万人の難民を抱える。

第三国定住とは、紛争や迫害のため母国を逃れた難民が、避難先国でも定住できない場合、彼らを母国でも避難国でもない第三国が受け入れ、長期滞在の権利を与える人道支援制度だ。日本は今年9月末、メラキャンプからアジアで初めての第三国定住によるミャンマー人難民を受け入れた。2010年に5家族27人、10年から12年までの3年間に計90人を受け入れる試験的な調査事業だ。

アメリカは年間数万人、欧州諸国は数百人規模の第三国定住による難民を受け入れている。先進国内で極端に難民受け入れ数の少ない日本における難民への待遇は、十分であるとは言いがたい。仕事や生活の不便を抱えて生きる在日の難民を見ている私は、来日予定のミャンマー人難民に話を聞きたかった。

「なぜ避難地として日本を選んだのか? 日本は、どんな魅力がある国だと思うのか?」

 待ち合わせのゲストハウスに、サフラン色の袈裟をまとう僧侶を乗せたバイクが飛び込んできた。来た。つぶらな瞳の僧侶は、玉木宏似のイケメン僧侶だった。こんなに若くして仏の世界の人か、俗世にいたら女性にモテたろうに……という私の心の呟きに気付くはずもなく、僧侶はアーシンソパカと自身の出家名を名乗り、

「すぐにキャンプへ出発しましょう」

と急かす。変装の必要は? と尋ねると、

「バスの時間があるので、必要ないです」

という。バス停へ行き、小型トラックの荷台に屋根を付け足したつくりのバスで出発した。町を抜けると、舗装は整った二車線道路が山間の勾配を突き抜ける。1時間ほど山道を走り、下車した。

「もう、ここからはキャンプですよ」

 アーシンソパカが指した一帯は、高床式住居が何万と林立して集落を形成し、山裾を果てしなく覆っている。家の屋根は葉を重ねてできており、床や壁は木と竹によるものだ。山の中腹には、青や黄色の彩色が施された建物が見える。

「あれは寺です。ここは一つの村を形成しています。砂漠に広がる布のテントが風吹かれ、といったアフリカの難民キャンプみたいな景色を想像していましたか? 違うでしょう」

 アーシンソパカは説明する。洗濯物が干してある家の窓には、半裸の子どもや太った老女が顔を出す。

「あれは、日本人でしょう?」

ある家のドアに貼り付けてあるのは、堀北真希のポスターだった。はるか極東アジアの島国にいる女優の姿が、メラまで運ばれてきている。そして堀北真希を知るこの僧侶、聞けば名古屋に留学経験があるという。ポスターは埃かぶって破れていた。

難民キャンプ、潜入

「友人がキャンプの入口で待っています」

木製ゲートのキャンプ入口に辿り着くと、色白で東アジア人に似た顔立ちの男性が立っていた。彼はタイ北部と西部、そしてミャンマー東部と南部にかけて居住するカレン族の男性で、ソーバージと名乗った。キャンプ内で難民に英語を教えている。

3人でキャンプの奥へ入っていった。家の合間に椰子の木など植物が生えている。細道がうねりながら続く。小川の橋は強く踏みしめたら崩れそうだ。道幅1.5メートルほどのメイン通りでは、砂で汚れた子どもたちが走りまわる。

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