カレン民族の新年パーティーで思うあれこれ。
ミャンマー国出身の少数民族、カレン族の人々が、日本で新年を祝うようになって13周年だそうだ。「だそうだ」とは、私がカレン族の新年パーティに訪れたのは今年が2周年で、以前の様子を知らないからだ。新年会に参加する私の下心は、ジャーナリストとして第三国定住難民に会うこと、願わくば情報を得ること。だが、この1年半、カレン人への取材を通して彼ら、彼女らの率直で誠実、勤勉な人間性に魅せられ、取材を抜きにして、カレン人と友達でありたいと願うようになってきた。こちらの片思いかもしれないが、好意を寄せるのは個人の自由だろう。新年会には日本在住のカレン人が150人弱集い、にぎわいを見せた。
新年会のプログラムには「カレン暦2751年」とある。なんと彼らはこのような長きにわたって民族の歴史を語り継いできたことになる。真偽はともあれ、彼らはそう信じている。個人差はあるだろうが、この催しに参加するカレン人は国籍であるミャンマー人であることより、カレン人であることを自身のアイデンティティとして重視している。多くの日本人は自分が何者かを問われると、迷わず国籍を口にするし、国籍と民族の区別がついていない。一方で、多民族国家に生まれた彼らにとって、国籍と民族は大きく異なる概念だ。日本にいる場合、彼らは「ミャンマー人です」と自身を紹介する。仲良くなってくると、「実はミャンマーの中の少数民族のカレン族出身です」と告げ、それからはカレン族の話ばかりになる。つまり、国籍は海外渡航や外国人への自己紹介などで使う便宜上の身分で、民族こそが「自分とは!」を表す最重要の情報であることが分かる。
さて、新年会の内容だが、プログラム内「新年のメッセージ」は、4つの言語でスピーチがある。ビルマ語、スゴーカレン語、ポーカレン語、ポーカレン語(東部)。ある人はビルマ語しか分からず、ある人はスゴーカレン語しか知らない、人によってはビルマ語とある1つのカレン語は分かる、などなど、同じ民族でも、話す言葉が実にバラエティに富む。民族的アイデンティティは同じでも、場合によっては一対一でコミュニケーションが不可能であることを自覚している。私の非常に貧弱なビルマ語能力によると、新年のメッセージは「今日ここにカレン民族のみんなが集い、今年も新年が祝えて嬉しい」という内容だった。もっと色々話していたんですけどね……来年こそは、ビルマ語をもう少し勉強して、さらに詳しく聞き取れるようになります……。
第三国定住難民の成人の方と話したが、かなり日本語が達者になっていた。ここ数年ミャンマーに関する取材をしている私のビルマ語能力がいかに向上していないか、自身と比較して思い知らされること多々あり、である。自戒はここまでにして、その方は日本に住めたことをとても良かったと思っており、仕事も頑張っている様子。私は友達気分で(中立を保つべきであるジャーナリストとしていかがなものか、はよく分かっている)「良かったですね~」と嬉しくなって相槌を打つ。
ただし一つ気になることがあった。それは難民の方に関するものではなく、第三国定住難民と共に新年会に来た外務省の外郭団体、難民事業本部の職員が、私が第三国定住難民の方と会話するたび、常に背後にぴたっといて話を聞いているのだ。偶然私のそばに立っていたという風情ではない。言うならば、その様子は新宿駅前でデモを見守る私服警官の態度にそっくりなのだ。難民事業本部は第三国定住の情報が外部に流出することに対して非常に神経質で、難民に言論の自由はないとの態度がアリアリである。はっきり言って人道支援における人権侵害ではないか。ここで私が難民の方に詳細な情報を聞き出すと、彼らがのちのち難民事業本部の職員からとがめを受けるだろう。彼らは日本政府から滞在許可をもらっている弱い立場にいる。それが分かるから、詳しく取材ができない。こんな難民支援があっていいのかと忸怩たる思いを抱えつつも、カレン人難民は「そんなもんだ」と大げさには気にしないかに見える。つくづく日本人の考える人権擁護の姿と、難民が望む希望や幸福の概念の概念が、似ているようで、いろいろと詳細は異なることを実感する。
カレン人の歴史などのスピーチが終わったら、カレン料理のバイキングを楽しみながら、合唱を聞く。彼らの多くがキリスト教徒で、今日はクリスマスだ。大いに合唱したいだろう。新年会会場のレストランホールが、にぎやかな教会のミサのようになる。新たな命を授かった若いカップル、今年来日した第三国定住難民の子ども、20年近く日本にいてミャンマーの民主化を求め続けた政治活動家……さまざまなカレン人が一同にして再会を喜び合う姿に、「友達」気分の私も幸せな気持ちが芽生えた時間を過ごした。ちなみにバイキング料理は、今まで食べたカレン料理で一番おいしかった。もしかしたら、私の舌がナンプラーや唐辛子味やタイ米に慣れてきた証拠かもしれない。